最近の「僕」と「世界」の接し方の話です

最近は漸く、少しずつ「機微」への目敏さがもう一度芽を出して来ました。

それを拾い上げておくも、一先ず見過ごすもまぁ僕の勝手なのですが、血眼になって探しても見当たらず、その辺りに転がっている様な在り来りで悪質な機微を手当たり次第拾い上げては、「こうではない」「そうでもない」と繰り返して、組み上げた積み木が気に入らず何度も崩す幼児の様に、外界に対して駄々を捏ねるくらいしかし得なかった頃に比べたら、幾許か感覚器官が目を覚まして来たのかな、とは思える様になりました。

とは言え、ワケも宛ても無い苛立ちが消えるハズは無く、僕にとっての「目敏い」という事は即ちより多くのものを捉える、という事なので、捉えたものに片っ端から苛立つ、しかし宛ては無し、という様な状態で殆ど毎日の様に1日の乗降者数世界ランキングの1位と2位の駅を通っているので、頭がおかしくなりそう、といつも思っています。思っているだけで別におかしくはなっていないですが。

 

僕は恐らく、僕の生活、即ち「僕」という僕自身の作品に関わりの無いものの事を非常に嫌っているんだ、と思います。僕は新宿も渋谷も心底嫌いですが(最も嫌いな街は原宿及び代々木公園界隈です)、何故かと言えばそこに居る人間の数の問題が最も大きく、だからこそ僕はそれらの街が嫌いなのですが、恐らく、本来ならば気にも留めない様な他者の事を、その数が増え過ぎて捉えざるを得なくなってしまい、考えざるを得なくなってしまう、その構図こそを心底疎んでいるのでは、と考えています。

しかしながら、それらを嫌うという事もまた僕の性質の1つであって、「僕」を成立させる上で手放す事の出来ないものである、とも言えると思います。何かを嫌い、疎み、憎み、妬んで今日まで来たのが他でもない僕である事はもういい加減に斜に構えずに真っ向から認めるべきである、と思います。何かを嫌う事をせずにいられたらそれはある種幸せなのかもしれないな、とか何とか考えてしまいますが、それは即ちマイナス方向の分別や区別を無くしてしまう事で、そうなってしまったらプラス方向への振れ幅の値も結果的には少なくなってしまい、それはいつか世界が無味無臭、無色透明に見える色眼鏡を作り上げてしまうのでは、と思います。現状あまりにも僕にとっての表層に好く事の出来るもの、美しいもの、正しいもの、良いものの少ない世界で僕が存在して行くには、何かを嫌い、その反動を用いて僕の好く事の出来るものを見つけ、そして好く、そうして少しずつ僕からの世界の表面を好く事の出来るもので埋めて行く、そういった風にしか世界と接したり、世界を組み上げたり、世界を好いたりする事は出来ないのかな、と考えています。

だからこそ、極端に言うなれば、強烈に何かを好く為には、強烈に何かを嫌う必要があるのかな、と、余りに短絡的ではありますが、そう考えてはいます。

 

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「寝て起きたら全て忘れる」どころか、若干ウトウトしながら文字を打ち込んでいるので、既に頭からは抜け落としながら文章を書いているのかもしれません。現に最初に書き始めた時の感覚を忘れつつあります。

最近は正直言ってコレが1番不便です。