「あの名前の"彼"」の話です

「あの名前の"彼"」を殺めたのは紛れも無い僕自身です。

 

気付けばもう数年間、「あの名前」が嫌いで仕方がありませんでした。目にする度に、呼称される度に、先ず嫌悪感と虚脱感が身体と脳を満たしました。身体中に写真が貼り付いていて、その写真へ目を合わせて話しかけられるようで、気持ちが悪くて堪りませんでした。いつか失って取り戻す事の叶わない、大切にしていたかった時が在った事を想起させ、それは僕が激しく嫌う「後悔の念」を呼び起こしました。

しかし何よりも、「あの名前の"彼"」に最も憧憬の念を抱いている自身が存在する事を、僕は最も忌み嫌っていました。

 

僕は「彼」の事がとても好きでした。僕の趣味と嗜好をありったけ詰め合わせた作品を作り、また在り方さえも「作品」として在ろうとした、「彼」の事がとても好きでした。

けれどいつしか、「彼」はボタンを酷く掛け違えて行きました。しかし僕は、ボタンを方々に掛け違えたままのシャツを着て、それでも尚、作品を作る、作品で在ろうとする「彼」の事がとても好きでした。

その後暫くして、「彼」は「彼」では無くなってしまいました。「ボタンを掛け違えたシャツ」も別の服に着替え、「いつか在ったもの」に慢心し、作品を作り続ける事も、作品で在ろうとする事も忘れてしまいました。

 

「彼」は「彼」で無くなるまで、ずっと「「彼」のまま」だったのだ、と思います。

変わってしまったのは紛れも無く僕自身の方で、「彼」への好意や憧れがいつしか、そう在れない自身との乖離から、「彼」を嫌うように、忌むように、疎むように、妬むようになってしまったのだ、と思います。

 

「あの名前の"彼"」を殺めたのは紛れも無い僕自身です。

だからこそ、僕だけが「彼」の所在を知っています。僕だけが「彼」にもう一度会う事が出来ます。僕だけが「彼」にもう一度"なる"事が出来ます。

「ボタンを掛け違えたシャツ」をもう一度着てボタンを掛け直し、僕の趣味と嗜好をありったけ詰め合わせた作品を作り、また在り方さえも「作品」として在ろうとする、そんな時を、一度崩れて/崩してしまったものを組み上げ直す時が来たのだ、と思います。

 

僕はもう一度、「Yunoshin」を名乗ろう、と思います。

僕が好いて、憧れて、大切にして、嫌って、忌んで、疎んで、妬んだ「名前」を、正しく、良く、美しいものとして認識出来るよう、正しい位置へ戻そう、と思います。

僕が、明日になっても未だ「僕」で居られるかどうか、怯える事のないように、確かに僕が「僕」で居られるように、僕は「僕」を作り上げて、今日から積み上げて行こう、と思います。

 

 

追記

僕にとっての「"僕"の本質」の部分を述べるなら、僕が求めているのは「僕及び「僕という作品」への理解」ではありません。

ただ僕は、「「僕自身」という、"この世界で最も僕の趣味嗜好の詰まった、僕がこの世界で最も好きになれる作品"を作り上げ、その「僕自身」の認識の全てで、「現在までの全ての瞬間の中で最も正しく、良く、美しい世界」に存在して居たい」だけなのです。

今は、僕は「僕」を作り上げるので精一杯です。ですがいつの日か、「僕」を本当に完成させる事が出来たなら、今まで僕の通って来た瞬間の中で最も正対した状態で、この世界を認識してみたい、と思います。

その瞬間が最低でも、最高でも、最悪でも、最良でも、それ以外でも、「僕にとって最も正しく、良く、美しい「僕」」で居られたなら、きっと世界を嫌ったり、忌んだり、疎んだり、妬んだりせずに済むと思うので。