他意も他愛もない話です

ツイートしようと思ったんですが、少し長くなりそうだったので久々にちょっと長めに文章を書きます。

 

‪「月がバカでかいので見てみると良い」、と言われ、珍しくそういったものを外に見に行きました。

中々に良いものが見れて、どうせ上手くも撮れないけれど写真でも撮るか、と思ったら端末の充電が切れてしまいました。

その一連の出来事で、普段は思い出したりしない、「毎日こんな時間まで起きていてずっとpcに齧り付いて作業していたり」、「外で話し込んでいたら東側から色が変わり始めたり」、「殆ど締め切ったカーテンの隙間が夜よりも明るくなって「いい加減寝なきゃ」と思ったり」していた時期の自分と、今の自分がピッタリと繋がって、重なるのを感じました。

 

改まって思い返す必要もなく地続きな事は知っていて、いつも自身へそれを説いているけれど、こうして繋がる感覚、というのは滅多にないもので、その時だけは、僕が失くしてしまった、「僕の失くしたくなかったもの」をもう1度、自身の持ち合わせに加えられた様な気がするのです。

ただそれも気がするだけで、例の如く「寝て起きたら忘れて」しまいますし、今だって端末で文章を綴る指は途切れ途切れで、ずっと充血したままの目と同じように、感性もまた、ずっと死んだままなのです。

数箇所ある「「ターニングポイント」の自身」に縋るのみで、幾度となく説いているように、現在の自身は世界を嫌い、忌み、疎むだけで何も生み出したりはしていません。それを、他でもない僕が何より知っています。

けれど、過去に縋り付いて「ポーズ」を取る事をやめないのは、その「ポイント」の自身や、それがその時に作り上げようとしたものを、未だに誰よりも好いていたいからだ、と思います。

きっと、何よりも、誰よりも、それを主張していたいのです。

自身が「それ」をやり続ける事によって、「それ」で在り続ける事によって、「在る」事を後生大事に抱えていたいのです。

 

何とも纏りに欠けて、掴み所が無く、その上急に始まって急に終わる文章になってしまいました、もし読まれる方がいらっしゃったら、申し訳ないです。