「死ぬには良い日」と、僕の話です

「今日なら死んでも良いな」と思えるような日があった事を憶えています。

 

失くしてしまったものを思い出すのが苦手です。

「寝て起きたら全て忘れる」は流石に誇張表現だな、と思いますが、僕は寝て起きたら、昨日感じた大概の感情の記憶が曖昧になってしまいます。

小さい頃から永らく、自身のした失敗への強い叱責を受ける事が多く、ストレスから身を守る為に、昨日の感情を曖昧にするようになってしまったのだと思います。

その所為か、強烈な失敗体験をしても、事象のみを憶えているだけで、失敗をした時のあの強烈に嫌な感覚を思い起こす事が出来ず、同じ地雷を踏み抜いてしまいます。例えるなら、強烈に苦い食べ物があって、「苦い」という事は覚えていても、その苦味がどの程度の苦味で、どの程度のストレスを自身に与えるのか、そう言った事は覚えていられない、と言うような感覚に似ている、と個人的には考えています。

 

昨日の感情を忘れてしまうようになった時から、代わりに永続的に「漠然とした生き辛さ」を感じるようになりました。

理由が有って生き辛い、理由も無いのに生き辛い、兎にも角にも生き辛い、きっと「生き辛さ」は僕のテーマなのだと思います。

マーフィーの法則では無いですが、普通に生きていれば偶に引いてしまうようなハズレくじを、感覚的な部分だけを言えば毎日引いているような感覚に陥ってしまうのです。

 

偏に、思い出すのが怖くて堪らないのだと思います。

嫌な感覚や、恐怖や、絶望や、悔いや、失くしてしまった大好きだったものの事を。

ただでさえ弱くて力の無い僕は歩みを進められないのに、重たい荷物を抱えたならそれは尚更です。ずっとその場で立ち止まってしまうのだと思います。

それを、此処には何も無いのに「生き辛い」と思い込んで、それだけを抱える事で他の全てを捨て置いて、それだけを信じて歩いて来たのだと思います。

 

「今日なら死んでも良いな」と思えるような日があった事を憶えています。

僕は、「寝て起きても供給され続け、忘れる事を許されない感情」がそこにあって、代わりに「漠然とした生き辛さ」がそこに無かった事も憶えています。

それを失くした時から、僕は"その日"の事だけを忘れられずに、何も捨て置けず、ただ縋り付いているだけで何も出来ず、生きているのが辛くて、ただ蹲って死んだ真似をしているだけなのです。

 

本当は決心や覚悟と言った、前を向いて歩き始められるような文章にするつもりだったのですが、その決心も覚悟も忘れてしまう事を思い出してしまったので、途中からこんな風に方向転換をしてしまい、こんな風になってしまいました。

 

僕は結局、自身の為に、自身のしたいようにする以外に生きて行く方法が無いのだ、と思います。

その絶対的で簡単なスローガンへ絡めて行くような形で、世界と関与して行くしか無い、とも思います。

自身の可能性を狭めるような、消極的で内向的で内省的な考え方へシフトする事は一般的には良しとはされませんが、元々無いような可能性を、せめて狭める事で選択肢を減らし生きて行く上で迷う事の無いようにするしかない程可能性に乏しかったので、これで良い、と考えています。

 

取り留めのない文章ですが、思考を整理する為と、明日の自身への引き継ぎのメモ書きなので、ご容赦ください。