創作に於ける「欲求」についての話です

久方振りにこういった形、こういった機微を以って文章を書きますが、僕が「何か」をこの文章やこの場に留めようとしたとしても、「何か」の「他者への認識のされ方」を僕はコントロールする事は出来ないし、それをコントロールをしようとしない事を僕は僕のポリシーとして掲げているので、あくまで僕は僕の「満足」及び「納得」の為にこの文章を記そうとする事を先ず断っておく必要がある、と考えます。

しかしながら、改めてこんな事を宣うまでも無く、僕はいつだって「そう」しているつもりなのですが。

 

僕の観測範囲内のみで喧伝されている事なのかもしれないですが、

『「クリエイター」や「アーティスト」、「表現者」の様な「創作」を行う人間は、「創作欲」や「表現欲」を取り扱ってそれを行うべきで、例えば「承認欲」やその他の邪な欲求を以って「創作」を行う事はするべきではない』

という様な論調や認識が、強度の差はあれど散見されている様な感覚が僕の中にはあります。

コレについては僕も繰り返して考えている部分ではあるのですが、僕が最も個人的な所で僕の意見を述べるとするならば、「付随する「小さな欲求」の全てを引っ括めて「大きな欲求」は顕れているので、「大きな欲求」について語るのであれば「小さな欲求」は引っ括められる程度のもの、些末なものである、と僕は考えます。それについて語ろうとする事は「大きな欲求」を捉えようとする中で行うべきで、「小さな欲求」のみを捉えて、本質的な結論を出す事は出来ない、とも考えます。」と現状ではなると僕は思っています。

 

しかしながら、この文章中に於いては、僕が僕の為にどうこう考えている、という事よりも、恐らく他者はこう捉えていて、それを僕が認識して僕はどう、という部分をより切り取りたい、と考えているので、以下がこの文章の本題になるのでは、と僕は考えています。

「自身への承認が他者から為されている事」を認識してしまうと、人間は何か、例えば他者、はたまた自身、その他には神の様な存在にでも、何にでも承認されて、「心の安寧」を得たい生き物である、と僕は思うので、他者へより承認を求めようとしてしまうのは当然の事である、と僕は思います。この場合に於ける「大きな欲求」は「心の安寧」である、と考えます。

「小さな欲求」を満たそうとするのは、欲求が満たされない事によるストレスを軽減し、他でもない「心の安寧」を手に入れようとする為であって、それは即ち「大きな欲求」を満たす為でもあります。

人間が生きるのは「自身というもの」を為す為である、と僕は考えていて、『自身の抱える「大きな欲求」を満たす』事は、「為す」事に於いて最も重要な事である、と僕は考えます。

「創作」をするのも、「表現」をするのも、例えば「自分の好きなものを作る人間が居なくて享受する事では満足が出来ないから自分が作る」のも、或いは「多くの人に認められたいから表現をする」のも、「心の安寧」という「大きな欲求」の前には「小さな欲求」でしかなく、そこには何も違いはなく、どちらに善も悪も無い、と僕は思います。

第一、「承認」というものを捉えようとしなければ、「承認が為されている事」を捉える事が出来ず、自身に対して贈られた称賛の言葉に謝辞を返す事も出来ません。その状態を『「称賛の言葉」という「表現」を捉える事の出来る側』の在り方として本質を捉えている、及び『「大きな欲求」を満たす』事である、とは僕は思いません。

 

僕が「表現/創作をする事」がシンプルな意味で「楽しくなくなってしまった」事に、「承認」をはじめとする「欲求」の問題は深く関わりを持っています。

僕が「創作」をし始めた時、僕は「創作欲」以外の欲求を持ち合わせていませんでした。

それもそのハズ、当時僕は出来の良くないものを作っていて、当然誰にも見向きもされず、自身に「作りたいから作っていて、それ以外には何も無い」と只管に言い聞かせて創作を行なっていました。

しかしながら暫くして出来がマシになって来ると、少ないながらも「承認」を得られる様になり、初めて3年半が経つ頃、僕が「Yunoshin」を名乗り始めて少しした頃には、偶々運を味方に付けて、多くの承認が得られる様になりました。今まで何処にも寄る辺の無かったものがゆっくりと根を張って、いつの間にか「寄る辺」を作り上げてしまいました。

人間にはそれぞれ「幸福の得方」がある、と僕は考えていて、僕というものは、「創作欲」及び「表現欲」のみを満たそうとしているときこそが、最も幸福である、と自認しています。

しかしながら、ずっとずっと「承認」を得る事が出来なかった事もまた事実で、「その欲求」に強く蓋をしようとしているからこそ、自身の持つ「承認欲」の在り方を充分に捉える事が出来なかったのではないか、と考えています。

だからこそ、「承認」の存在を捉えようとしない事は、自身が「自身という作品」を作り上げようとする、即ち「創作欲」及び「表現欲」を満たそうとする上では「是」とされていない事ではあるが、「承認」を捉えると、自身の中で「欲求」を扱う事に於いて、扱いたい「欲求」と相反する「欲求」にも目を向ける事になり、それが「幸福」の純度を非常に下げ、果てには『「幸福」を枯らしている』という事が出来る、と僕は考えます。

 

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現在の僕の中では「僕の在り方」な部分に於いては「答え」が不完全にしか出せておらず、結果として結論の無い文章になってしまったのですが、こうして記した事、そして記しておく事は、現在の僕にとっては重要な意味を持つ事である、と考えているので、不完全なものを不完全なまま記しておきます。